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戦火を生き抜いて希望を胸に
中国湖州王一品齋筆荘
画像磚
戦火を生き抜いて希望を胸に

これは以前私が弁護士会の機関誌に寄稿させて頂いたものですが、私葉沢の経歴ということでホームページ上にも掲載する事にしました。


戦火を生き抜いて希望を胸に

私はカンボジアで生まれ育ちましたが、6歳の時に勃発したポルポトによる内戦の為に家族が容赦なくばらばらにされました。
いわゆるポルポト政権の始まりでした。当時6歳位だった私は内戦によって国が混乱し、ポルポト新政権の為に家族全員が家から追い出され街から村、森、無人地帯のジャングルへと連行され、そこから私の体験した4年余りの戦争生活が始まったのです。
 その年の中頃からポルポト政権の政治は悪化する一方で、民衆家族をばらばらにする動きが始まったのです。大人はそれぞれ別々に遠方へ強制労働に連行されて行きました。当時私の妹と弟も連絡のつかない遠くへと連れて行かれ、9歳の姉も青年部隊に入隊させられ、稲作やダムの堤防建設などの重労働に従事させられていたのです。私は田植えや稲刈り、牛糞収集作業、牛の放牧などの労働もさせられました。食事はもちろん一日一回程度でしたしご飯というご飯ではなく、ほとんどご飯粒の入っていないおかゆなどでした。食事は昼食のみで時間になったら、大きな配給に使われていた食事作りの壊れた鉄製のフライパンや大きいなべを叩いて鳴らし、皆がその鐘音で食事に集まっていました。もちろん早いもの勝ちなので、遅れた人には言うまでも無く食べる物が無いわけです。
私の記憶では、その当時よく森の中で野生の果実や蟹などを捕らえて空腹の足しとして食べていました。もちろんジャングルですから赤痢、マラリア等の伝染病に罹っても病院や薬など何にも無いので、運がよければ助かるだけの事です。死に掛けた事は数え切れないほどありました。
1978年頃多くの人々が虐殺され、それはまるで死の世界のような闇の日々でした。この年、別の村や地域で殺戮が始まり母方の祖父母と叔父の家族もその時連行され殺されました。そして、叔母の娘も余りにもお腹が空いていたので我慢しきれず人目を盗んで食堂のサツマイモを食べた事が見つかり、生きたまま棒で袋叩きにされ殺されたのです。もう一人の娘も栄養失調で命を落としてしまいました。
そして1979年にベトナム軍がカンボジアを侵攻し、ポルポト軍は敗れ私たちは解放されたのです。それを機に他の家族と団結して牛車に食料とお年寄りを乗せ(私は当時牛車を操る名人でした)皆で村から脱出しジャングルからプノンペンへと向かって昼夜を問わず逃げ出したのです。出発時に幾つか選択手段のある家族は山越えのルートを選び、三角地帯を超えようとして不運にも地雷で命を落とす人もいれば、私たちのように道無きジャングルの山や谷を越えて脱出した人もいました。その時不運な家族は病気に罹ったり、毒蛇、蠍、毒蜘蛛に咬まれたり、獰猛な狼や虎に襲われ命を落としました。また、途中でポルポトの残兵に出くわし命を落とした人も数多くいました。
やっとの思いでプノンペン市内に辿り着き元住んでいた家へと帰ってみると、既に建物は跡形も無くなっており、その焼け跡がバナナ畑になっていました。三階立てで26人の大家族が同居して使用人が3人もいたかつての生活の面影はどこにもありませんでした。その時の親たちの心境は、想像するに余りあります。
住まいも何にも無い状況で取りあえず、空き家を見付けて仮住まいとしました。その時期も時々ポルポトの残兵が市内に出て来ては略奪をしては、手榴弾を爆破させていた為犠牲者もたくさん出ていました。そんなある日、私は牛を放牧させる為に草原へと連れ出したところ、その牛が地雷を踏んでぶっ飛ばされた事がありました。私は幸いにも無事でした。そこで両親や親戚が相談し、せっかく内戦を生き延びてここまで逃れて来たのに、ここで死んでしまったらたまったものではないと言う事で、ベトナムへの脱出を決めたのです。
しかし脱出には様々な困難が待ち受けていました。お金の工面の問題も発生し、飼っていた牛たちを売ってベトナムへの脱出資金にしました。金銭的な問題と家族の安全の為に、一族は三組に分かれてメコン川を渡ったのです。
ベトナムのホーチミン市に辿り着いた翌日、父は家族を連れてホーチミンの有名な中央公園へと行き、家族皆で写真撮影をしました。それはポルポト政権による内戦から生還した記念の写真でした。急遽古着屋で買い求めた服装で、やつれた面影の家族の姿がそこには写っています。
暫らくしてからホーチミン市内にある、昔日本軍が建てたという団地に移り住みましした。後に所有者からこの物件を購入しましたが、最終的にはお金だけ騙しとられて物件の権利書を渡して貰えませんでした。
数ヵ月後ベトナム政府がカンボジアからの不法入国者を国連が管理している難民キャンプへと収容する政策を始めました。ある日の夜中に武装した兵隊が団地の自宅に侵入して来て家族はトラックの荷台に載せられて強制的に難民キャンプへ連行され、その家も没収されたのです。
その時から7年余りの難民キャンプでの生活が始まりました。当時ベトナム国内には5、6ヶ所の難民キャンプが有り、比較的条件の良いキャンプから劣悪な環境のキャンプまでランク分けされていました。条件の良いキャンプというのは主に海外の親戚を頼り海外移住を希望している人々が収容されました。
キャンプ生活と言うのは収入が全く無い為、国連の配給に頼らざるをえません。私たち家族が最初に入れられたのは非常に条件の悪いミートォーと言うキャンプで、ホーチミン市内から公共交通と船を乗り継ぎ数時間かけてやっと辿り着く場所でした。しかもその当時住んでいたキャンプは川上に地元住民が住んでおり、水牛などの家畜を飼っていた為川には牛糞などがそのまま流れ込んでいましたが、仕方なくその水を飲用水として使っていました。困った事にその川は年間2回の自然現象による水路変更でレモンのように酸性の強い水と塩分濃度の高い水が流れ込んできており、そのせいで皆胃が荒れてぼろぼろになった患者が多く発生しました。私の父もそうで、そこで対策として雨季の時期には屋根の上に雨水を貯める事にし、父専用の飲水としたのです。(当時住んでいた住居は椰子の葉を屋根とし、竹で作った高床式の家でした。床は無く粘土質な地面そのままの状態でしたので、一旦雨が降ると泥だらけになっていました)
それから3年ほど経った頃カンボジアの内戦前に伊藤忠商社に勤めていた叔父に頼って日本行きの手続きを始め、そのおかげで新しいキャンプであるトウダックと言う最も条件のいいキャンプへ移されたのです。
そしてそこでまた4年の歳月が過ぎ、その時に色々な語学を独学で習得して行ったのです。その当時の一日を振り返ってみると、朝9時からベトナム語(それはベトナム政府の政策で、強制的に学ばされました)10時半からは中国語、お昼の1時からはフランス語で2時半から3時半までは英語と言うように、語学学習の毎日だったのです。
当時は中国語だって毎日漢字の一文字を3から5ページ練習するといった毎日でした。だけれどもその時は、この調子でいったら一体いつになったら中国語が出来るようになるのかと不安でした。
そして1987年の7月29日に日本政府からの許可を得ることができ、念願の日本へ来る事ができたのです。
来日当初神奈川県大和市の難民定住促進センターで6ヶ月日本語の基礎及び生活習慣を学び、その後既に広島で生活を始めていた祖父母の元へと移り住みました。
当時18歳だった私は日本語が全く出来ず、それまで正規の学校教育を受ける機会も無かった為に中学校、高校に通うこともままならず、仕方なく広島にある自動車部品メーカーへと就職する事になったのです。
そんなある日、入社したばかりの大卒新入社員が3ヶ月の研修期間を終えてすぐに係長になっている事に気が付き不思議に思ったのです。当時勤続25年の私の上司も係長でした。それから私はある衝撃的な事実を知らされる事になったのです。それは私の上司が職場では何でもこなせていたにもかかわらず、彼は中学校しか出ていないがために、これ以上出世は望めないと言うのです。それを聞いて大きなショックを受けました。
そこで、自分も学校へ行かなくてはと思い、ある日私たちの世話人の方に相談をしたところ、何とこう言われたのです。「あなた達は難民なのにこの国に来る事もできて仕事もあるのだから、これ以上の事は求めるな」と言うのです。その言葉に私はかなり怒りを覚えました。祖父母に止められてなんとか怒りを抑えましたが、自分の心の中で必ず学校へ行ってみせてやると固く誓ったのです。
勤め出して一年経った頃に会社の上司に学校へ行きたいと言う話をしたところ快く承諾をして頂いてそれから昼間はサラリーマンとして働き、夕方5時から中学校へ通うという毎日が始まりました。2年間で中学を卒業し、更に夜間の高校にも運良く受かり、それでまた昼は正社員で働き、夜は高校に通うという4年間の高校生活が始まりました。忙しい毎日でした。
平日はがむしゃらに働いて勉強し、休日は当時のアジア大会、地域や警察のボランティア通訳などとても忙しく充実した毎日でした。地域貢献と言う名目で一日区長体験やラジオ番組、テレビ、新聞各社の取材などあちこちからもひっぱりだこの状態でした。
そうこうしているうちに高校も卒業間近となった頃、どうせ受験資格があるのだから受けてみてはどうかと高校の担任から勧められ、私立大学ではとても授業料が払えそうに無かった為に、国立大学である広島大学を受ける事になったのです。
しかしある日職場のあるおじさんに、「お前どこの大学を受けるんだい?」と聞かれた時、思わず「広島大学 」と言ったところ、凄く馬鹿にされ、「お前みたいな外人で、しかも夜間の高校で広大なんかに受かる訳が無い。昼間の生徒ですら受からないのに、昼間の生徒が24時間勉強するのをお前は48時間勉強できるか?」と笑われたのです。しかし私も負けずに、「やってみなきゃわからないでしょう!」と言い返したのでした。
その後またも運が良く大学に受かったのですが合格発表日は見に行かずに会社で普段通りに働いていました。
そして夕方5時頃に職場の主任から、「おい!受かったでー」と言われ、一瞬何が起きたのかわかりませんでした。「大学だよ、大学受かったでー」と言われた時に、やっと自分でも実感として湧いてきたのでした。
その後大学卒業後、会社勤務を経て今年の2月に念願であった祖国カンボジアと少年期を過ごしたベトナム、そして華僑としての自分のルーツのある中国と、新たな母国となった日本との架け橋となれるよう貿易及び通訳を主業務とする有限会社三金貿易を立ち上げました。現在も日々悪戦苦闘の毎日ですが、この秋からカンボジアを代表するビールであるアンコールビールの日本国内総代理権を獲得し、輸入販売する運びとなりました。次なる夢は母国であるカンボジアやベトナムで学習の機会に恵まれない子供たちに小学校を建設することで、その夢が一日も早く実現するように小さい事からコツコツと努力をしています。
今一つ言える事は、何に対してもチャレンジ精神を持って前向きに頑張っていれば、いつかは必ず結果が出ると言う事です。目標や信念を抱き続ける事が人生にとって非常に大事だと私は思います。


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