北海道の浦臼がふるさと【会員および浦臼町全戸配布】 発行責任者 東京浦臼会世話人代表 児島俊則 350−1317 狭山市水野321−33
第14回東京浦臼会の報告 平成18年4月15日(土)東商スカイルームにおいて、第14回東京浦臼会が60名余りの出席にて盛大に開催されました。ふる里浦臼町から山本町長をはじめ町民の方12名、遠方(旭川、徳島、名古屋)の方、初参加の方も出席され、楽しいひと時を過ごされました。出席されました方々には、世話人会として御礼申し上げます。 午前11時より午後3時頃までの間、昼食をはさみ、浦臼町からの報告、ふるさとの名産品などのお話があり、野田春代さんと友人(アンサンブル遊)による尺八と琴の共演が行われる中、先輩、同輩、後輩、浦臼にゆかりのある人達と、自分の育ったふる里浦臼を思い出しながらの話に花が咲き、時間の過ぎるのが早く感じるほど楽しい一日でした。最後に全員で写真を撮り、来年元気で会いましょうということで散会になりました。 来年の東京浦臼会は、平成19年4月21日(土)を予定しております。 節目の15回ということで世話人会としても何か考えなければと思っておりますので、会員の皆様も今から予定され多数出席下さることを期待しております。
総会案内の発送と返信の内訳 ( )内数字は第13回の内訳です。 区分 発送 出席 欠席 返無 戻り 鶴沼 75(75) 3(6) 21(18) 49(51) 2(0) 浦臼 230(224)54(44) 72(70) 93(101)11(9) 晩生内 54(56) 4(8) 26(17) 166(181) 0(1) 計 359(355)61(58)119(105)308(333)13(10) ※参考 出席者数第11回75名 第12回69名です。
世話人 疋田正秋
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《エッセイ浦臼》 (出会い・ふれあい・カルチャ−・レジャー・思い出・夢・浦臼人は元気印)
私の浦臼 194−0032 東京都町田市本町田3450−162 飯島昭介
浦臼は、私にとって第二の故郷である。 故郷とは、自分の生れ育った地を言う。ならば自分が生れ変った地を、第二の故郷と言わしてもらいたいのである。 私は小樽に生れ、二十の時、浦臼へ来た。そして二年間、浦臼中学校の教員を勤めた。たった二年間と人は言うかも知れないが、浦臼の一年間は、私の心にとって、十年と刻まれている。 私が旧制中学三年の時、敗戦となった。それはアメリカに日本が占領されることだった。昨日まで鬼畜米英と叫んでいた、エライ人達がアメリカ賛美を唱える。昨日までの善が、一転して、悪となる。 このような社会状況は、世間を知らない感受性の強い少年の心に、甚大な影響を与えないはずはない。 人間とは何か。生きるとは何か。自分が生きる存在理由はどこにあるのか。等々の私を苦しめた人生への懐疑は、青年期の一つの特色と言えるかもしれない。 しかし、当時小学校から教えられた価値体系が、百八十度転換した社会の現実に遭遇して、その苦悩は深く、強かった。同級生の一人は自ら命を絶った。 それに加えて、私は人前でしゃべることの出来ない、内気な子だった。すべてに消極的だった私は、友人の才能と活力に、劣等感を植えつけられた。 不安と辛さは重い圧迫感となり、私を家の外に押し出した。学校の勉強などほったらかしにして、毎日のように同じ悩みの友人と、街をうろつきまわった。私の青春時代は暗かった。そこから逃れたかった。 昭和二十二年、学制改革があり、新制中学が誕生した。そのため極度に英語の先生が不足し、政府は有力大学に、英語科教員の養成所設置を要請した。今の小樽商大にも設置され、私は運良くここに合格出来た。 無意識に自然の安らぎを求めていた。自然が豊かで、田園のある地に行きたかった。そんな私を母が、親しくしていた医者の奥さんにグチッて話したのであろう。突然、当時の岡藤校長が家に見えられた。驚いて聞くと、その奥さんが友成村長の妹さんで、そのツテで、私に浦臼中学校に来てくれるように要請に来たという。岡藤校長の朴訥な人柄と、官舎が与えられると聞き、快諾した。 初めて浦臼駅に降りた時、木々の緑は輝いていた。浦臼の風は少し冷たく、ホホには心地良く感じた。官舎へ行く道沿いに澄んだ小川が流れており、やさしいせせらぎも聞こえる。官舎の前に校舎が建っており、その前に広々とした校庭があった。校舎の前には花壇があり、花々が美しく咲き乱れ、時たま湧き上る砂ぼこりも、妙になつかしい気分にさせてくれた。私の心は満ち足りた思いにあふれ、私の中で何かが変わるのを感じた。 何もわからないまま、私は中学一年A組の担任になった。子供たちは元気で、無邪気で、明るい笑い声が絶えなかった。そのすがすがしいエネルギーを吸収し、私も元気になり、明るくなった。未知なる異国の言葉を知ることは、自分の世界を大きくしていくことである。 子供たちは、小学生から中学生へと急激に成長する。私もまた、人生の悩みなど入りこむ余地などないほど、教えることに夢中になり、多忙であり、充実し、一日一日、社会人として成長した。 私は、浦臼の地で、全く生れ変った。
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《エッセイ浦臼》 (出会い・ふれあい・カルチャ−・レジャー・思い出・夢・浦臼人は元気印)
北海道で一番おいしい町 昭和33年浦臼中学校11期卒 工藤知子 浦臼町を離れて早くも43年、現在は神奈川県西部に位置する小田原市に住んでいます。小田原市は城下町で、戦国時代の名将北条早雲の居城だった小田原城がシンボルです。 皆さん記憶ありますか?薪を背負いながら本を読む少年、二宮金次郎の銅像が、校庭にありましたね。その二宮尊徳のここは生誕の地なのです。そして富士山とともに四季を眺められる静かな町、自慢できる町です。 よく、ふるさとは? 浦臼町はどこにあって、うまいものは? と質問されます。札幌と旭川の中間にあって、おいしいお米、アスパラ、じゃがいも、ワイン、濃厚なトマトジュース、メロン‥‥ちょっとひとこと、夕張メロンばかり有名ですが、浦臼メロンのほうがおいしくて最高と思ってます。北海道では一番おいしい町、と紹介しています。 浦臼での一番の思い出は、第3号で原稿をお寄せくださった上坂先生です(今でいうイケメン先生)。浦臼高校は定時制でしたので4年間、バドミントンを指導していただいたのです。決して上手でなく、私の場合下手の横好きタイプでしたのに、シャトルを追いかけて、新十津川、美唄、夕張と、あるときは泊りがけで遠征し、3位、優勝2回と導いてくださり、楽しい思い出の高校生活となっています。 35〜37年浦臼町開催のいろいろな体育大会でも、優勝、2位、3位と、賞状は今でも大切にしまってあります。 あの頃珍しかった喫茶店にも入りましたが、運動の後のお腹を満たすため、浦臼駅付近で今川焼き、斉藤食堂でラーメン、山田旅館、石栗菓子店でラムネやパン、駅裏のおばちゃんで鍋焼きうどんを食べた記憶があります。現在のコンビニやファミレスのない時代、寄り道のラーメンやパンはおいしかったです。どの店も今はなくて淋しいですね。 小田原市へ来て子育てが終ってから、小田原家庭婦人バドミントン大会出場で銅メダル2個。あららー、体が覚えているんですね。こんな経験していない人いっぱいいますもの、バドミントンに出会えたことは幸せです。今でも健康と若さを保つため、シャトルを追いかけ、スマッシュを決めるときの爽快さに汗を流しています。 10泊11日の高校の修学旅行のことを書いてみます。子供やお友達に「ウッソー」と驚かれましたね。総費用一万円で、集合写真が10枚以上含めて少しの残金があった記憶があります。 国会議事堂、皇居、羽田空港、江ノ島、鎌倉大仏、日光東照宮、箱根から熱海へ、大阪城、通天閣。 京都、奈良ではお寺だけでも10ヶ所以上、あまりに多くの見学で覚えきれないほど。大きさにびっくりの奈良と鎌倉の大仏、でも美男子だなと。鹿に追いかけられた春日大社、金で光っていた金閣寺。東映撮影所では当時お姫様スターの桜町弘子、すこし近くで大川橋蔵に逢いそこね、宿に来てくれた17才の舞妓さんすごく大人にみえ、先輩に連れられて見たSKD、みんなステキでよく足があがって圧倒されました。 御茶ノ水の学生会館に宿泊したとき、美男子なインドの大学生とお友達に、英語が分からなく引率の英語先生に通訳を、なぜだか通じなかったり。箱根のバスは霧が深く、富士山、芦ノ湖が見えず、くやしい思いをしました ふだん見ることのないアルバムはいつも押し入れの中、懐かしい思いで開いてみました、みなさまもどうぞごらんになっては。浦臼の思い出が走馬灯のよう、ふるさとのある喜びがわかります。 浦臼に行くたびに少なくなる店、家、人。良くなったと思うのは舗装された道路位かな。元気になってほしいな浦臼町。 小田原城、ういろう、干物(ひもの)、かまぼこ、梅干、小田原堤燈(ちょうちん)、箱根、伊豆に向かう中継点、どうぞいい街です、いらして下さい。
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《エッセイ浦臼》 (出会い・ふれあい・カルチャ−・レジャー・思い出・夢・浦臼人は元気印) 幸福追求の犬利 176−0002 東京都練馬区桜台5−40−3 本尾 良
プロフィール 1930年、北海道浦臼に生れる。オ市川房枝記念会理事長。 ’64年早大文学部露文科聴講生を経て、実母とともに日本婦人有権者同盟練馬支部を創立し、区長準公選運動などに参加。‘96年同同盟会長に就任。翌’97年練馬区長選に出馬のため会長を辞任。 その後、地域で市民による学習会「市民と政治」(2年間)「常民の会」(10年間)を主催。‘90年以降「非核・みらいをともに」「ジャーナリズムを語る会」運営委員など、市民運動を行って現在に至る。女性「九条の会」よびかけ人の一人。
本尾ピッタは10歳である。 陽気なヨーキーこと、小型犬のヨークシャー・テリアの男の子で、この種の犬としては、飼い主の不手際で大き目に育ってしまった。強気のきかん坊だが、感情表現の豊かな犬であり、ワルがつくけど賢くて、愛され方が実にうまい、と飼い主たちは思っている。 夕飯のあと、家族がほっとしているのを見はからい、子犬時代から馴染みの、汚いまりをくわえてきて、母犬代わりの私をおびき寄せ、ソファに座らせて、膝に丸くなる。まもなく両方とも、快く眠ってしまう。 夜が更けて足もとが寒くなると、いつも私は出生地の北海道の原風景にはまってゆく。音もなく降りしきる夕暮れの雪の庭。雪だるまや、雪の落とし穴を掘る女の子と、白い雑種の小型犬「コロ」である。 母にお説教をされる材料が、大分たまっているから、今夜あたりお説教かな、という予感がするので、時間稼ぎにコロをつきあわせていた。幼い私とコロはいつも一緒だった。 真っ白い雪の中でこそ、犬の姿はりりしくて美しい、と思いこんでいたから、東京に住んでからは犬を飼わずに過ごしてきたのだが、10年前、娘が予告なしに持ってきたダンボールを開くとピッタがいた。 生後2ヵ月になる犬と目を合わせた途端に、すっかり魅せられてしまった。以来、犬に対する猫可愛がりが始まり、ピッタの方は私を家来だと思っているようだ。 18世紀から19世紀の産業革命時代、紡績産業が盛んになったイギリスの中心地ヨークシャー地方に、スコットランドから多数の織工が移住してきた。彼らが連れてきたクライスデール・テリアと、ヨークシャーに元からいたテリアとによって生み出された愛玩犬がヨーキーである。日本に本格的に入ってきたのは1950年以降で、平和とともに彼らは上陸した。 60年前の大戦、現イラク戦争の共通点は、戦争を早く終らせるために市民の生活を破壊し、戦争を続ける意思をなくすことであった。将兵を失わずに勝利する方法は、第1次大戦のあと、欧米で生まれた戦略爆撃である。と、毎日新聞は昨年6月22日に、3月から11月にかけての「戦後60年の原点」シリーズで取り上げた。 戦略爆撃は1937年4月25日、ナチス・ドイツのコンドル空爆機による、スペインのゲルニカ爆撃に始まる。続いて38年からの日本軍の重慶空爆、ドイツ軍によるロンドン空爆。イギリス、アメリカ軍によるドレスデン空爆。1945年3月10日、アメリカ軍による東京大空襲に始まった日本全土96回にわたる空襲。そして最大の悲劇は広島、長崎への原子爆弾投下である。 それから20年後の1965年から73年にかけての、アメリカ軍によるベトナムの北爆、湾岸戦争でのイラク爆撃、NATO軍によるセルビア爆撃。2001年9月11日のNY同時多発テロ。続いて2003年3月に始まったアメリカ、イギリス軍によるイラクの空爆。この爆撃に使われた1万3千発のクラスター爆弾は190万発の子爆撃を発射しているという。そのためにイラクの子供たちは、命や瞳や手足を失い、心も病んでいる。 犠牲は人間ばかりではない。軍馬として戦死した馬をはじめ、動物園で餓死させられた動物、空襲で落命した動物など、物言えぬ動物たちの命もはかり知れない。 今年の干支(えと)は戌(いぬ)。ピッタの主治医のお話によると、日本中の飼い犬の数は1200万頭。ちなみに猫は700万頭。地震や台風や洪水などの天災にも、動物たちの命運がかかっているが、人災である戦争は、人にも動物にも絶対に避けなければならない災難だ。 愛犬家の数は3000万にものぼると思う。愛犬は「愛憲」に通じる。若い愛犬家が「ワンワン愛犬・愛憲大行進」を企画して、改憲反対運動を起こしたら、必ず参加するのだが。 (1980年宇都宮徳馬氏創刊 軍縮問題資料 2006.4 より転載)
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《浦臼発ブログ紹介》 浦臼からすばらしいことばが発信されています
ちっぽけな 作成 2006/02/24 2/24北海道新聞朝刊「卓上四季」に次のようなことが載っていた、 (前略)札幌市の上田市長が夏季五輪の招致を見送った。再びあの高揚感を味わいたいと思っていた向きには残念な結果だろう。厳しい財政状況や他に優先課題があることを考えれば、しかし、その判断は妥当だったといえる(中略)それにしても議論が財政難や経済効果などカネの話に集中したのはさびしい。トリノ五輪で米国の金メダリストがスーダン難民の子どものために米五輪委員会の報奨金を寄付した。金メダルの意味を問い直してのことだった▼五輪とは何か。なぜ札幌でやるのか。世界に何を発信するのか。カネの問題だけではなく、理念について、もっと語るべきではなかったか。
私はといえば、五輪競技成績に一喜一憂している、ちっぽけな人間である。
離婚届 作成 2006/01/24 がっかりさせては困るので、最初に言っておくが、私のことではない。 新聞にのっていた文書である。(一部要約している) 結婚して、一人娘の入学式を祝ったのもつかの間、夫の浮気が原因で、弁護士に離婚協議書の作成、提出を依頼した。二人は一人娘と、近くのレストランで最後の食事をした。並んだごちそうを前に、誰もはしをつけようとしない。娘が何げなくつぶやいた。「パパ、今年のお正月楽しかったね。もうあんなお正月こないんだね」一瞬の沈黙が走り、やがて二人の目から涙がこぼれ落ち、止まらなくなった。その場で離婚を取り止め、やり直すことにしたという。人間は出会ったすべての人から教えられ成長していくのだと思う。 その中には当然自分の子どもも含まれるのである。という内容だ、いい話である。
病院へ 作成 2006/02/18 私は、たばこの煙に敏感である。たばこの煙がただよってくると、すぐわかる。体の調子が悪いときは特に、あの煙がのどにからみ、我慢できなくなる。たばこを吸っている人は、このつらさが、きっとわからないでしょう。 つまり、私は、たばこを吸わないのではなく、吸えないのである。よって、子供の頃からたばこは吸っていない。
北海道新聞の「卓上四季」によると、 「禁煙外来」という診療科を持つ病院が増えてきている。たばこを「やめたいのにやめられない」というニコチン依存症の患者が治療を受けている。ただし、自由診療のため医療費は全額自己負担だ▼その禁煙治療に四月から保険が適用されることになった。これまで禁煙達成までにかかる費用は平均で計三万円前後。それが今度は三割負担の場合で三千円弱ですむそうだ。喫煙者には朗報と思ったら、そうでもないらしい▼「喫煙はつまり、病気とみなされたわけだ」と浮かぬ顔の同僚がいる。「やめたいと思っている人は別だが、こっちは好きで吸っている。これからは『ああ、あの人は病気だ』と言われるのかね」(以下省略)
昔、何かで読んだ事があるのだが、女性が書いていた。「自分の恋人のたばこの煙は、いい香りがする。しかし、父親の煙は、ケムタイだけ。なぜだろう?」との内容だった。喫煙者の皆さん、みんながあなたの恋人ではありません。
北国の空から で検索できます
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《浦 臼 の 町 か ら》
浦臼町のパソコン所有率は約20%とのこと。東京の浦臼会もそれに近いと思われます。それではと浦臼訪問のさいの感触+ホームページの内容で、こんなページにまとめてみました。(佐々木)
浦臼町役場 浦臼町の戸数は平成18年7月31日現在1023戸。 平成17年末、神内ファームに15世帯の入居があり、1000戸レベルを回復しています。
第19回ワインの里フェスティバルin浦臼 8月27日(日) 8月最終日曜にこれからもずっと継続開催の見通しです。この日クラス会で帰省される方も多いでしょう。 とにかく広い広い会場、ここへ足を運ぶ計画をいっぱい立ててくださいとのことです。 東京の会員には楽しい内容満載のちらしを100枚限定ランダムで配布いたします。届かなかった方は仲間に問い合わせるとか、ホームページで見るとかをお願いいたします。 ぼたんそば収穫祭=9月最終日曜、9月24日です。
市町村合併第2幕スタート 北海道はこのほど、市町村合併推進審議会で合併構想原案を示しました。その結果「砂川市、歌志内市、奈井江町、上砂川町、浦臼町」二市3町の枠組みが示されました。そのほかの地域では「滝川市、新十津川町、雨竜町」「芦別市、赤平市」の3つ。いずれも人口3万人を満たす組み合わせと説明。浦臼町は合併協議するか未定。町民とともに議論を重ねながら取組む方針。
神内(じんない)ファーム21 この広報でお知らせするのははじめてです。於札内の高台に栽培面積、生産能力ともに日本最大級の野菜生産工場(巨大温室)が平成13年にできています。室内環境自動制御により、無農薬野菜を通年供給中。地熱利用、1000トンの氷貯蔵施設など、各種の最先端技術が取り入れられ、農業以外の面からも見学者の絶えないところ。 消費者金融プロミス創業者で元会長の神内氏は、北海道農業開拓の夢を挫折しており、再挑戦を心に誓っていたのです。50年後70歳、まさに念ずれば通じる、浦臼町に600ヘクタールの土地ありという。ここは壮大なリゾート地計画の、命をかけた夢の破れたところだったわけですが、またそれゆえに理想に向けた大計画が新たに立ち上がる場所となったわけです。神内ファームは浦臼の新たな同志、そして浦臼の希望の星、本当にうれしいご縁と思います。 農業への取り組み理念、生きたお金の使い方、人の動かし方など、私たちが学ぶことは多いと思われます。 現在1期15世帯の入居(=夢現塾生)ですが、計画は浦臼以外も含め4期、60世帯まであり、 これからの北海道農業は個人では無理、企業化という視点なしには生き残れない、との説明を聞きながら、8万本のラベンダー、肉牛舎、ソメイヨシノの桜だという並木、ばんば、サラブレット、どさん子の牧場、ばんば大会で優勝してますよ、これが馬場で、これがゴルフ場、いい芝ですね、ドラゴンフルーツって花がサボテン、そう、サボテン科ですよ、と古河さんに案内していただいたのが7月18日。ちなみに私は東京浦臼会だよりの編集者という身分で見せていただきまして、個人では見学できないところです。 またここには、北海道農業企業化研究所、通称HAL(ハル)財団も置かれ、北海道の地域農業の企業化をはかるための調査研究、啓発、普及により、北海道農業の安定発展に寄与することを目的としています。 構成する役員、研究員には誰もが知る実力者を揃え、規約や資産、進行中の研究内容、技術なども公開され、考えられる限りの一流の取り組みです。それにより表彰された、第1回の拠J口農場など7団体にも拍手を送るしだいです。 夢現塾ブログが公開されているとのこと。見ましたら膨大な写真つき作業報告書、いや、詩的簡潔な説明ですから楽しいアルバムという感じ。ここで生活している皆さんがときどき見せる、苦しいとか、不安の、息づかいまで外部に発信され、ここまでやれるの、以前なら人知れず悩んだのに、と感嘆させられます。「夢現塾」で検索できます。
白元浦臼事業所 浦臼出身の鎌田氏の創業により、今は日本の一流企業となっています。全国どこへ行っても白元の製品にお目にかかるかことができますからすばらしいです。その浦臼元気印のルーツ、鎌田氏のことがよくわからない。それを調べて記事にしなくてはと、この会報の創刊のときからの課題でした。東京浦臼会の後藤寛次氏がよくご存知と聞くが体調を崩されてか原稿入手に至らない‥‥というようなわけで「舘(やかた)」の奥さんが電話をかけてくれた。代わってしゃべろうとしたら、私の補聴器では音が拾えない。そうしたら、終業近いですが機械がまだ稼動しています。こちらへ見学にきませんかと言っている、という。 で思いがけなく、「舘」の奥さんと山科先生と私、かけ足見学が実現。車で行くとすぐそこ。しかも見学するのは全員はじめてとあとで知ってまたびっくり。ちょうど「アイスノン」と、人形用の防虫剤「わらべ」の製造充填ラインが稼動中であった。さすがに立派なものだ。利益をきちんと出して浦臼町に納税し、貢献している超優良企業と聞いたとおりだ。 鎌田氏のことは、当日不在だった役員の方にあらためてお願いすることになりそうです。よろしくおねがいします。そして見学させていただきましてありがとうございました。 ホームページでは浦臼での説明どおり、浦臼事業所の所在を確認できませんでした。営業拠点札幌オフイスの中あたりに入っているのでしょうね。 合併子会社化は数知れず、したがって白元の字の見当たらない生活雑貨総合メーカーの道を歩んでいます。それを次号でお知らせし、また元気をもらうことになると思います。
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《浦臼を出てからの私》 (会員へふるさとへの報告) 私がふるさとを離れざるを得なかったわけ 晩生内8期30年卒 向井 満弘
昭和33年帯広畜産大学へ入学した時、もう私の卒業後の職場は決まっていた。当時の浦臼村の共済組合家畜診療所であった。長男でありながら農家を継がない私を、少なくとも浦臼にだけはとどめおこうとした父の思いと、浦臼出身の獣医師が欲しいという村の方針が一致したらしく、即決だったという。 私もそのことには何の違和感も抵抗感もなく、むしろ大変ありがたいことと思い、将来はこの浦臼に残り、浦臼のために‥‥と心に決めていた。夏、冬の休暇には診療所へお邪魔し、当時赴任しておられた長町先生より臨床獣医師としての心がまえなど、緊張しながら拝聴した覚えがある。 そんな私でしたが、ふるさとを離れざるを得なかったその訳は、大学四年の臨床実習の時に判明し、私の将来に大きな転機をもたらしたのである。牛の直腸検査の技術実習の時である。 直腸検査とは、肛門より腕を挿入し、直腸壁を通じて子宮、卵巣の形や大きさを、さらには腸管の状態をも探る、大動物の繁殖(産科)医にとっては重要な検査手技である。当時の私は勉学より柔道に力が入っていて、右の利き腕は異常なほどに太くなっていた。これは牛の繁殖医としては大きなリスクであり、教授からも向いていないのではと言われていたのであるが、この実習を受けて改めて実感したのである。牛はやや苦痛を示し、私も腕にかなりの緊迫感、さらに指先に痺れを感じるような気がした。あきらかに不適格である。 当時浦臼にはまだ相当数の乳牛が飼養されており、獣医師の仕事の大半を乳牛が占めていた。私は乳牛の臨床に自信を失い悶々とした日々を過ごしていた。そんな時、日本中央競馬会の採用案内を目にした。獣医師3名採用のかなり狭き門であることは承知していたが、大動物の臨床を生涯の仕事と決めていた私にとって、わずかではあるが灯りが見えたような気がした。父には内緒で試験にトライしてみた。幸いなことに第一次、二次、そして第三次試験と、何とかクリアできた。しかし同時に父を通して交わした浦臼村との約束があり、それを思うと嬉しさも半減した。私は悩みに悩み迷いに迷った。しかし、どうしても直腸検査の実習で感じたあの不適格のトラウマを払拭することはできなかった。今思えばまことに身勝手な考えであり、行動であった。浦臼村への不義理は四十数年たった今でも頭から離れず、申し訳ない気持ちで一杯である。ふるさとに残り頑張っている小中学校時代のわが友坂東二郎君、そして同窓の友々、また学年は違ったが浦臼のために一身を捧げている山本町長、そんな仲間の活躍を耳にするたび、四十数年前の自分を思い出し、ふるさとに何の貢献もできなかったことを恥じているこの頃です。このたび「浦臼を出てからの私」ということでの原稿依頼でしたが、どうしても私が浦臼を離れたその訳をお伝えしたく、この四十数年間、私の心につかえていた気持をこの紙面にて吐露させていただきました。 わがふるさと浦臼に対する気持はずっと変ることなく、特に現役を退いたこの頃、望郷の気持は一段と強くなっております。眺め親しんだ山川、そして友、まぶたを閉じれば走馬灯のように次から次へと‥‥。そんな半世紀も前のふるさとを偲んでいます。なお、浦臼を出てからの私のその後につきましては、またの機会に投稿させていただきます。
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何でもしゃべろうスピリッツ うらほー、ウライウシオモテウスドラノゴン + 本to浦臼
山、原野、牧場 山と渓谷社 開墾の記 柏葉書院 続開墾の記 北海道新聞社 前のぺージの余白に絵をいれてありますが、この絵に記憶がありませんか。いま帯広六花亭の包装紙に使われていますが、坂本直行の絵なのです。私は見てすぐわかりました。 私が浦臼高校を卒業して1年以上たったころです。北島和晃先生から本が送られてきました。「山、原野、牧場」というタイトルで著者が坂本直行。 農業高校というふれこみで私は浦高で学んでいるつもりだが、岡藤先生の生物と園芸ばかりで少しも役にたたないと、北島先生にこぼしていたのだ。そう、中学校長だった岡藤先生が退職後、講師として一生懸命だったのですが、ほかの農機具がなくて下肥(しもごえ)とクワだけ。下肥ってわかります?人間の糞尿のことですよ。ぴちゃぴちゃと肥え桶で運ぶのよ。寄生虫や清浄野菜ってことで誰もやらないし、何日も畑が匂うし江戸時代やってる感じ。浦臼高校の閉校記念誌を調べでみたら北島先生は2年しか在籍してなく、私が卒業の頃には江別に転任されていたのを思い出した。この本、暗かった私を元気にしてくれました。のちに坂本直行の文体と同じね、と私は言われましたから。 十勝の原野に開拓に入る。冬に掘っ立て小屋を立て、柱のまわりに水 を入れると凍って固まるから軽便コンクリート。風呂なんて何日も入れ ない、雪原に大きな三つ足を作り、ドラム缶をつるしてマーブル風呂。 雪に閉じ込められ家畜の餌がなくなり、町へ買出しに行ったらモノがな いので帰りはスキーを楽しんできた! とか、深刻な事態なのに抱腹絶 倒なのだ。 ほかに「開墾の記」の絶版の著書があることを知り、お持ちの方はい ませんか、と新聞に投書したら、送ってくれたのは中学校で学んだこと のある今井道博先生がその一人だった。 次々に馬と牛を3頭続けて、綱がらみと転倒で亡くす。大雪の中夫婦で病気の子を背負って町へ出る。牛や馬はどうでもなれと覚悟する。開墾の記録は悲惨で喜劇である。 続編には、「四番目の子供が生れた昭和15年は大凶作、16年は9月24日の早霜で、ソバ、豆、デントコーンが一夜でゆでたようになってしまい、どうすることもできません。どちらの農家も同じでよそから分けて頂くこともできません。飼料不足の牛はどんどんやせて3月になると立ち上がれなくなり、2頭の牛が続けて死んでゆきました。もうすぐ雪が溶け青い草が出てくるというのに‥‥。今思い出しても涙が出てきます」と奥さんが語ります。あの 時期にいつ書いたのかわからない原稿とのこと。 のちに親しくなった蝦夷歳時記の著者佐々木丁冬先生によると、すべての農業者に読ませたい名著であるという。ここに書いた先生4人、みんなお亡くなりです。合掌。 しかしこんなすごい坂本直行の親ってどういう人?というのが長年の疑問だった。この間何気なく坂本竜馬の家系図を見ていたらあるではないか。竜馬の姉の子が直寛で、直行は直寛の孫だ。私は開拓で苦労された広尾町でギョロ目の直行氏に会っているのである。浦臼が竜馬ゆかりの地ってのもすごいが、こんなに身近なご縁だったとは、と驚いている。佐々木 巖
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《エッセイ浦臼》 (出会い・ふれあい・カルチャ−・レジャー・思い出・夢・浦臼人は元気印) 郷里浦臼に帰って早や10年 061−0600 北海道樺戸郡浦臼町於札内46−28 畑山 光
東京浦臼会に参加させていただき、感激するとともに、世話人の方々のご苦労に心よりお礼申し上げます。総会前に浦臼名産物の説明をさせていただき、恐縮かつ感謝申し上げます。会では同級生や子供のころお世話になった方、遊んだ方などにお会いでき、時間のたつのも忘れて話しこみ、童心に返ることができました。今回初参加させていただきましたが、この会は小生にとって意義ありで今後も出席させていただきます。総会で会員減少が討議されましたが、みなさまのお住まいの町で、浦臼ゆかりの人を1〜2名募集するのはいかがでしょうか。 小生は、昭和16年浦臼町札的の地で生まれました。小学校は終戦直後の入学、とにかく物のない時で、ゴム長靴は40人に1足でくじ引きでした。そのときの昼食は弁当でしたが麦飯で、めいめいが風呂敷を頭からかぶって隠しながら食べた。また、タバコの葉の代用に、イタドリの葉を採集し、乾燥させて学校でまとめて出荷、というのもありました。これが学用品に取り替えられたわけです。この頃ですね。札幌興農園というタネ屋が小生の叔父のところへ、何かわからないが珍しいタネがある、何とかならないか、と持ちこんできた。それがメロンで、試行錯誤3年、商品化に成功、札幌市場に出荷した。この時期に浦臼メロンの試験栽培がはじまった、と称しており、すなわち浦臼メロンのはじまりで、たまたま小生は目撃していたことになる。 評判いいので北海道品評会に出したところ、3年連続で最優秀賞に輝き、NHKで放送され、札沼線はメロン列車が運行されるまでになったわけです。 しかし、3代目のわれわれの世代が浦臼を去るなどで後継者なく、メロン栽培が後退、ノウハウを夕張、三笠にゆずった。今は4〜5代目が、浦臼はメロン栽培の適地と自負し、ブランド化確立に努力しているところです。 浦臼バレイショも同じ頃のもので、札的墓地高台で栽培され、のちに農林省指定の種バレイショ栽培がなされただけあって、ライマン価高くほろほろです。浦臼町馬鈴薯生産部会もブランド化にまい進しています。 米は上川農試、中央農試で改良に改良を加え、「ほしのゆめ」「ななつぼし」など東京浦臼会で試食していただいたとおり、「コシヒカリ」「アキタコマチ」にひけをとらない味です。そして日本一の米貯蔵施設、(おそらく世界一の)「中心蔵」で、米質保持保管〜精米を行なっているのです。 小生は昭和35年月形高校を卒業しました。現在その母校の評議員(北海道教育委員会委嘱)をさせてもらっていますが、3年前月高は少子化を理由に廃校または統合のうわさがあったので、前校長、教頭と協議し、もよりの中学校不登校生、札幌近郊で落ちこぼれの生徒を入学させた。しかもローカル普通科高校ですので大学に何人入れるかで評価されるので、進学担当先生を中心にマンツーマン教育をした。その結果、平成17年度卒業生で国公立大2名、私立大15名、専門学校17名が合格、新入生61名入学で月高の存続を維持できているしだいです。 これらの延長でもあり、話の始まりでもあるので書きますが、小生は昭和39年、酪農学園大学応用昆虫(Economic.Entomology)学教室を卒業しました。応昆とは農作物、果樹などを加害する昆虫で、人間から見ると害虫になります。その害虫の生態および防除を学びました。農作物の最大害虫は夜盗虫(ヨトウムシ)。名前のとおり夜21時頃食害泥棒するので、現行犯逮捕ということで夜防除するのに懸命です。その年の4月、三共製薬に入社(農薬部)、3年間渋谷の独身寮から地下鉄で銀座1丁目まで通勤しました。ですから今回東京浦臼会会場近辺を、会の前日ワイフと懐かしく探索させていただきました。感謝します。 昭和42年北海道に三共とホクレンの出資で、北海道の農作物害虫および病害に合った農薬を開発・製造しようと北海三共が設立された。そのとき小生は北海三共への転勤を命ぜられた。当時は農薬の原体(合成化合物)は日本になく、ヨーロッパ(ドイツ、スイス、フランス、イタリア)アメリカで、これらの国々に輸入を目的に長期出張した。ドイツには原体メーカーが5社あり、長期出張したとき、ベルリンからケルンまでライン川下り観光を楽しんだ。左右沿岸にワイン用ぶどうが栽培されており、その間に古城がいくつも建ち、ローレライ近郊は絶景であった。途中下船しワイン城を訪ねましたが、その際ワイン用ぶどうの品種および特徴を聞きメモったのでした。 平成8年に郷里浦臼に戻ったのですが、そのとき北海道ワインKK(鶴沼ワイナリー)で栽培されているぶどうの品種はドイツでメモったのと同じで、味もドイツ産に負けない高級ワインでした。そのわけは北海道と旧西ドイツは緯度が同じ、気候風土も似ているためです。 浦臼町で栽培されたぶどうは北海道ワインKKで酒造し、小樽ワインのラベルで販売されていましたが、昨年12月、山本町長、鶴沼ワイナリー今村社長と協議してもらい、6銘柄を浦臼ラベルで、浦臼町酒販親交会が販売することになりました。銘柄は下記のとおりで、くりかえしますが、ドイツ、フランス、イタリアで高級ワインとして高値で売られているものです。 ミュラー・トゥルガウ (白/やや甘口) ケルナー (白/辛口) セイベル (赤/辛口) アムレンシス (赤/やや甘口) ミュラー・トゥルガウ完熟フレーラン (白/甘口) ツヴアイゲルトレーベ (赤/やや辛口) ワイン取扱店 浦臼町酒販親交会 会長 尾花商店 酒本商店 TEL 0125−68−2106 尾花商店 TEL 0125−68−2410 大西商店 TEL.FAX 0125−68−2050 JAピンネAコープ浦臼支店 TEL 0125−68−2211 森商店 TEL.FAX 0125−68−2234 ユーテック TEL.FAX 0125−68−2535 福田商店 TEL 0125−68−2445
小生は昭和50年から平成8年までホクレンの嘱託講師として「21世紀を生きる農業について」農家、農協職員を対象に、講演活動に没頭させてもらいましたが、近年の農業は終戦直後とちがい物資があり余る時代ですので、食品の安全性を確保することが大切で、農業資材(化学肥料、農薬)を最小限にし、有機質(堆肥、緑肥)の還元に努めねばなりません。 農薬不要論が消費者から叫ばれるようになったので、小生は平成9年より、二足のわらじ生活に入りました。日中友好ということで中国人コックを4人雇用(浦臼、三笠)し、レストラン「會賓楼しいたけ飯店」を経営しながら、北海道道立農業大学校で農業Uターン生と農業リーダー生を教えています。 浦臼には平成8年、36年ぶりに帰ってきましたが、不況の波高く浦臼町の財政は破たん寸前です。浦臼は農業町ですので農産物(アスパラ、ミニトマト、メロン、スイカ、ジャガイモ、米、カスミ草、ガ−ベラ、バラ、牛肉、ワイン)を消費者に受け入れられる有機農法で生産し、満足していただくのが一番、ブランド化にING‥‥町おこしのため奮闘しています。 一方農産物に付加価値をつけて販売することが必要で、第3セクター浦臼観光公社で製造販売しております。農産加工品は次のとおりです。 ミニトマトジュース、ノンアルコールワイン、手のべ葡どん 手のべうどんミニトマト入り、手のべそば(浦臼産牡丹そば粉使用) ミニトマトケチャップ 浦臼観光公社と入力すればホームページ検索できますTEL 011−633−3331 FAX 0120−035−765
ワインぶどうジャム 浦臼町農産加工研究会製造 米・バレイショ(浦臼町馬鈴薯生産部会)・メロン(浦臼町メロン生産組合)こちらはJAピンネコープ扱いです。 ホームページはJAピンネコープと入力すれば検索できます TEL 0125−68−2211
小生も浦臼に帰ってきて10年になり、鶴沼第1町内に住んでいます。ツツジ、シャクナゲを外国からも集め、池、滝つきの庭を造園中です。住むには浦臼は快適です。皆さまも帰ってきませんか?
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氈@ お便りコーナー 戟@ 東京浦臼会だより拝見しました。ありがとうございます。 私は昭和22年5月、内地から晩生内の高台地に入り、荒地を開墾して60年、今日に至りました。 当時けがをして岩崎医院さんにお世話になり、本尾良さんや土居牧師、山科先生、家曳きの後藤さんなど、浦臼の皆さんに親しくしていただきました。 平成15年12月心臓発作で酪農をやめました。 上手ではありませんが、昨年のクリスマスには歌を歌わせてもらいました。 私が来た時は村から町になり、人口八千人が今は二千五百人、過疎の町になりました。谷間の灯の歌を地でゆくような感じです。 晩生内第一 谷洋太郎
いつも貴重な「東京浦臼会だより」ご苦労様でございます。 浦臼の歴史もいろいろ凄いものですね。感激いたしました。生まれ育ったところなのに、何も知らないことばかりで、もっと知りたいと思いました。 私は昭和54年に神奈川県にまいりまして、気がつけば29年が過ぎようとしております。田舎より神奈川県での暮らしのほうが長くなりました。こちらに来ました当時は、右も左も分からず戸惑うことばかりで大変苦労したものです。 おかげさまで会社を2社ほど経営しており、毎日忙しく走りまわっておりますが、浦臼には墓参りを兼ねて年間5回は帰っております。いつ帰っても北海道、いや浦臼の空気のおいしさ、人の温もりにほっといたします。 私が鶴沼中学校を昭和45年に卒業し、その後すぐに廃校になり、帰るたびに半分残っている校舎を見ては、懐かしさで胸がいっぱいになります。 若い頃はただ無我夢中でがんばっておりましたので、田舎のすばらしさを感じる余裕もありませんでしたが、年を重ねたせいか、いまではとても恋しく思われます。 今回は日程の折り合いがつかず出席できませんが、東京浦臼会開催、東京浦臼会だより発行など、深く感謝申し上げ、心ばかりを寄付させていただきます。 皆様のご健康とご盛宴をお祈り申し上げます。 藤沢市 吉井蒔夫
浦臼村字晩生内岩村農場、この懐かしい文字、これが私の出生地、私のふるさとです。 昭和37年、帯広畜産大学卒業と同時に郷里を離れ、日本中央競馬会(現JRA)に入会、以後JRA競走馬診療所の勤務医を経て、昭和46年向井競走馬診療所を開設し現在に至っています。 その間40有余年、ただ競走馬の診療一筋、数多くの名馬たちと出会うことができました。この名馬たちとの出会いが私の大きな宝物であり、大きな財産であります。しかし私も66才、医療の現場からの引退を考えるようになりました。 毎年東京浦臼会のご案内をいただきながら、土、日曜日は競馬開催のため、出席できないでおります。近く引退の後には是非出席いたし、懐かしい郷里の方々との再会を楽しみにしております。千葉 向井満弘
お約束したので、拙文をお送りします。「浦臼会だより」についての熱い情愛を感じられる、もろもろの添付文有難うございます。特に「文の書き方のコツ」など大変参考になりました。それにうながされた、ともいえます。その中にこんな一文がありました。 「上手に書こうと思うことがブレーキになる。書きたい、書こうと思うことがエンジンになる」全くその通りだと思います。その見地からすると一つ気になるところがあります。それは浦臼会だよりの編集方針・目標です。そこに、読めば浦臼会会員も、浦臼町民も元気になるもの、幸せになるもの。そしてまた、書いてよかった、読んでよかった、みんな楽しく。と別の面にもあります。書いてよかったなど結果でしょう。同じ文でも読む人によって、百人百様の受け取り方をします。明るく、楽しく、させる文を書くのは難しいことです。技巧を必要とします。文を書いてもらうのに、条件をつけることはマズイのではないでしょうか。 私は人を元気にさせる、楽しくさせる文など書けない、としりごみしませんか。人生は重い荷を背負って、坂を登るようなもの、苦しいことのほうが多いのですから。暗い文でも読む人にとって元気になる、というのは読む立場でのこと。書く立場の人は最初からあきらめます。 自由に、自分が思うままに書きたいことを書いて下さい、と無条件に頼むほうが原稿が集まるように思います。目標は、発行の目的のところので充分だと考えますが、いかがでしょうか。 飯島昭介
眼下に広がる皇居の若葉の香りが、この会場まで届きそうな、初夏を思わせる晴天の日、東京の中心に各地から参集なさいました浦臼という町をこよなく愛する方々、その熱い思いに心打たれながら、未熟ではありますが精一杯の演奏をと、皆様と楽しい交流をさせていただきました。 正直申しまして野田さんと知り合わなければ、浦臼という町を知ることはなかったでしょう。人との出会いはなんと稀有であり、すばらしいのでしょうか。私はこの日の出会いに感謝します。 出身地を誇りに思い、遠く離れてもなお、ふるさとの発展とふるさとの人々へ幸多かれと願う心が、こうして「会」として実践されている、そのことが本当にすばらしく感激いたしました。 感激はほかにもありました。それは本場の方々を前に私どもの伴奏で北海道の民謡を唄って下さったこと。ありがとうございました。一番の感激です。 そして、山本町長様をはじめ、ご挨拶された方々のスピーチが、一地域にとどまらない広く深く内容の濃いもので、耳に心地よく、心に染み入るお言葉でございました。 おいしかったワインやお米とともに、皆様の愛する浦臼が、自然も人々もいかに豊かですばらしいところであるかを証明する何ものでもないと感じ入りました。 この機会を下さいました野田さんと幹事さん方に心から感謝申し上げますとともに、東京浦臼会と浦臼町のますますのご発展と、皆々様のご健祥を祈念申し上げお礼の挨拶とさせていただきます。 アンサンブル遊 福田智子
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《編集後記》 ▼まずお礼です。発行経費のカンパは前の3号でお知らせしたとおりですが、追加です。吉井蒔夫様3万円、畑山光様1万円、谷洋太郎様ほか匿名2名、計5名のかたから51,000円のご支援をいただきました。ありがとうございました。▼ここでクイズです。浦臼に「やかた」という店があります。昔の郵便局なので歴史建造物ですが、正しい字は次のどれでしょう? @「舘」A「館」。食べ物の店だから食篇のAですねと2号紙の広告をデザインしたんですね。そしたら、@が正しいのですって〜。お詫びして訂正します。▼この号に原稿を下さいました皆さまにもお礼です。飯島先生ご指摘のとおり、「自由に自分が思うままに書きたいことを書いて下さい」でみなさまにお願いです。たくさんのテーマがあってどれも明るくて私は書けない、になると思いますが、暗いテーマは使えないので、「はじめにことばありき」かな、そう思うことしましょう。▼2ぺージに、会報とともに送りました総会案内の、発送と返信の内訳があります。これでみると現在の東京浦臼会は会員180名です。ですから「私でなくてほかに書く人いるでしょう」と言っている場合でないのです。みんな大切な一員で、そのままのあなたの表現で十分。名文なんて一部のプロのすることで、下手のそのままで行きましょう。そのための心配なことはご相談下さい。そうやって、いろいろなお手伝いをさせていただいていますのでよろしくお願いいたします。▼そして書ける人が書けるときにどんどん書くべしで、私の書いたものが多くなり、ちとまずいと感じますが、同じことは浦臼町のぼう大な記録を残された村上寿雄氏、先年故人となられましたが、やはり悩まれたことに気がついた。とにかく公式にまとめる努力をすると、正確であるが肩がこるみたいになり、読むのに一苦労だ。そこで村上氏は私ごとのようなことをちょっと書く。そうやって読むものの興味を離さないテクを用いている。▼この浦臼会だよりは多くの人に読まれなくては役目を果たせないから、人間くさい記事大切、ということで許容範囲に入ってくれているかな、と祈るような気持ちで書いている。▼その上に私は体のハンデもあるし、毎日の生活が忙しいが、それも大事な気がする。それゆえに生活者の視点が持て、忙しいがゆえに「原稿お願いします」も効いてくるので(?)それで今回は、〆切もすぎ、予定の発行日になっているのに編集が終えられず、もうワヤです。▼ホームページ対応は印刷発送を終えてからになります。▼ふだん記という、ものを書く人たちの北海道大会があり、それで今年も浦臼を一回りできたのですが、横浜を発つ前の日、仕事が夜通しとなり朝帰りになった。脳細胞が減るばかりで人の名を思い出せないことが多いが、今回はスケジュールのミス多く、そんな自分にがっくりです。多くの方にご迷惑をおかけしてしまいました。でもそれによってこの広報ができているのです。▼浦臼のどこだったかスゴイですよ。ふわふわの大きい風車が2つ、もこりもこりと回っていた。写真にとるのを忘れたので、場所も思い出せないが、あれは於札内の土井農場かな、ちがっていたらごめんなさい。▼怪獣って今はカワイイの多いのね。インターネットで怪獣って入力したらいるわいるわ底なし沼だわ。今回それを使いましたが、これを見ている浦臼と東京の子供たちの、怪獣の絵をたくさんお待ちしています。▼編集事務は227−0033 横浜市青葉区鴨志田町569−1−23−504 佐々木巖 Tel・Fax 045‐962‐2966 にて行なっています。感想、ご意見、情報をお待ちしています。 |
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